1823 年(文政6年)
木内儀兵衛により創業 清酒「菊盛」が誕生

常陸の国那珂郡鴻巣村(現在の茨城県那珂市鴻巣)の庄屋、木内儀兵衛が酒造りをはじめました。
当時、木内家は庄屋として水戸藩に年貢米を上納していましたが、当時、木内家は地の庄屋として周辺の農家の米を年貢米として水戸藩へ上納しておりました。
儀兵衛は年貢米の余りを蔵にしまっておくより、酒に加工し販売することを考え、交流のあった会津商人より酒造りの道具を買い入れ、酒造りを始めました。当時1年間に使用した米は、年間で白米20石。生産量にして4,000リットル程度のようです。
当時、木内家は庄屋として水戸藩に年貢米を上納していましたが、当時、木内家は地の庄屋として周辺の農家の米を年貢米として水戸藩へ上納しておりました。
儀兵衛は年貢米の余りを蔵にしまっておくより、酒に加工し販売することを考え、交流のあった会津商人より酒造りの道具を買い入れ、酒造りを始めました。当時1年間に使用した米は、年間で白米20石。生産量にして4,000リットル程度のようです。

時は江戸後期、新たな時代を求める改革の思想と、古のみを思う考えが交錯する混沌の時代。水戸では天照大御神からの史実に基づき新たな将来を考える学問を水戸学として提唱、西郷隆盛や吉田松陰ら時代を変える偉人の思想の拠り所となりました。
その中心が木内家と縁戚関係にある藤田東湖。東湖の仲立ちで儀兵衛は多くの水戸学の学者や志士達と交流を行います。そしてある秋の日、庭に咲き誇る菊の姿に日本の繁栄を重ねた東湖によって、木内の酒は「菊盛(きくさかり)」と名付けられました。
その中心が木内家と縁戚関係にある藤田東湖。東湖の仲立ちで儀兵衛は多くの水戸学の学者や志士達と交流を行います。そしてある秋の日、庭に咲き誇る菊の姿に日本の繁栄を重ねた東湖によって、木内の酒は「菊盛(きくさかり)」と名付けられました。
写真は東湖が好んだ唐の詩人・杜甫「飲中八仙歌」の筆が揮われた木内家母屋の襖。火災で一度は失われたが、後に甥の丹誠によって復刻されました。(現在はレストラン「母屋」として改装)














